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「わかりあうためのレッスン アートの視点から捉えるジェンダーとLGBTsとわたし」レポート&感想文

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年1月24日、サンエールフェスタ2021の市民企画として、「わかりあうためのレッスン アートな視点で捉えるジェンダーとLGBTsとわたし」を実施した。

 

ゲストは中村美亜さん(九州大学大学院芸術工学府准教授/専門は芸術社会学や音楽学、ジェンダー、セクシュアリティ研究)、福岡の緊急事態宣言のため、オンラインで会場とつなぐ講座となった。

(感染症対策として、受付で検温、手指消毒、マスク着用をお願いし、会場は常時換気)

 

 

 

<企画の意図>

 

昨年サンエールフェスタ2020で開催した講座「アートの中のLGBTQ」(ゲスト 趙純恵氏/福岡アジア美術館学芸員)の反響が大きかったため、さらに参加者同士で思いを共有するような内容を試みたかった、社会的課題と結びつけて主体的にアート作品を読み解く試みは、ジェンダーを考える絶好の機会になる、鹿児島市長の選挙公約に「同性パートナーシップ宣誓制度を速やかに実施」とあったため、LGBTsに関することを知識としてだけではなく、「私」との関係性において考える機会を持ちたかった、鹿児島市男女共同参画課が主催する事業で、LGBTsに関する学びを深めるための、誰もが気軽に参加できる事業がなかったこと、⑤当事者団体ではない私たちが、現状を変えていくために何かできないかモヤモヤ悩むなら、まずは実行してみた、など。

 

 

 

〈レッスンの内容〉

 

〇トーク
初めに、常識を前提としない「アートの視点(批判的思考力)」が導くエンパワメントや関係性の変化などの作用について、次に身体的、社会・文化的、個人の社会心理的な性別の複雑さについて解説があり、その後対話型鑑賞を用いて、中村先生とつくる学校メンバーの原田がそれぞれジェンダーを感じる、もしくはテーマにしたと思われるアート作品を数点ピックアップし、おしゃべりをしながら主観的に見ていった。

 

鑑賞した作品:ミヤーン・エジャーズル・ハサン(パキスタン)「ドン!」1973-74・福岡アジア美術館所蔵、ジュディ・シカゴ(アメリカ)「ディナーパーティー」1974-79・ブルックリン美術館所蔵、桂ゆき(日本)「積んだり」福岡市美術館所蔵・「壊したり」北九州市立美術館所蔵1951年、モニカ・メイヤー(メキシコ)「The clotheline2019年、仲田恵利花(日本)「ファイト20172017年、ダムタイプ(日本)「S/N1995-2005年、ジェン・ボー(中国)「シダ性愛14」)2016-19年。

 

 

 

〇グループワーク

 まず10枚のアート作品画像および鹿児島の日常風景写真(選挙ポスター、まつり、龍馬とお龍の像など)を参加者それぞれがじっくり見て、その後45名のグループに分かれ自由に意見交換をし、代表者が発表、先生がコメントするという流れ。およそ20分間のグループワークだったが、各グループ時間が足りないほど、話が尽きない印象だった。

 

グループワークで使用した作品:森栄喜「Wedding Politics2013年、長谷川愛「(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合」2015年、アニー・スプリンクル&ベス・スティーブンスのポートレート

 
参考資料:「美術手帖 ジェンダーフリーは可能か」https://bijutsutecho.com/magazine/series/s21・北原恵『アート・アクティヴィズムⅠ・Ⅱ』(1993・1999)・中村美亜『クィア・セクソロジー 思いこみを解きほぐす』インパクト出版会(2008)

 

 *アンケート結果はこちら

 

 

 

〈つくる学校メンバーによる感想文〉

 

 

この方に、直接お会いしてみたい。オンライン講座の間、ずっとそう考えていた。スクリーン越しではあったけれど、性科学者であり当事者でもある先生の、語り口や表情から滲み出てくるものには、やわらかな知性とでもいおうか、なんともいえない魅力があった。 今回の講座は、直前の緊急事態宣言によってオンラインによる開催。オンラインは便利で安心といったメリットもあるけれども、やはり限界というか、もどかしさもある。それは多分、講師が魅力的であればあるほどだろう。この時期だから仕方がないけれど、学びの場は、やはり講師から放たれる「熱」に直接触れることが大事だ。 講座では、自分なりに二つの気づきがあった。一つは、ふだん僕たちはずいぶん「それってあたりまえ」的な思考をしてしまっていること。たとえば、人間の分け方は女性と男性の二つしかないという思い込み、などなど。もう一つは、今回の講座のように市民自らが学びや体験の場を作っていくことの大切さ。ジェンダーやパートナーシップ制度などにおいて、行政の腰を上げさせるのはたいへんなパワーがいる。けれども、市民があっちでもこっちでも同時多発的に行動し、学びを堀り起こしていくと、行政を動かす土壌につながると思う。 とくに印象的だったのは、後半のグルプミーティング。前半の中村先生の講座で、ふだんの、さまざまな性の思いこみが解きほぐされたからだろうか。参加者みなさんは、ほとんどが初対面同士にも関わらず、表情が生き生きとしていた。その様子を、静かにZOOMから眺めておられた中村先生は、映し出されたスクリーンの中から、にこやかにこう語りかけた。「みなさん活発に意見を交換されてましたね。私もその場に行きたかった」。中村先生、ぜひ鹿児島にいらしてください。                                                (文責・吉国明彦)

 

 

 

「変わる」とは一体なんだろうか。

 そんなことをこの一年くらい、休み休み考えている。

 そして何かを考え始めると、行き着くところ、「私とは何だろうか」という

 問いになる。そうして初めて、自分が変えられることと、今は変えられない現実がくっきりと浮かび上がってくる。

 生きていると、私たちは否応無く様々な問題に直面する。

 中でも解決が最も困難だと思われることが、人権に関わる問題だ。

 ところが、先日ある女性グループと話をしていた折に、全員が同時に理解したことがある。それは「人権って言葉はよく使うけど、暮らしの中で意識したこと、ほとんどないよね?」という気づきだった。

 親も含めた大人の子どもに対する人権侵害、夫婦間の人権侵害、結婚制度の周辺で起こる人権侵害、こういったものが日々、何回も繰り返し起きていることにあまりにも私たちは無自覚ではないのか。

 また、こんなことも体験した。小学校の保護者参観で、小さな男の子を連れたお母さんがいたが、お兄ちゃんの机の隣に座りたくて仕方がない弟がいるのを見て、別のお母さんが、隣にいた私に囁いた。「全く誰も注意しないんですよね。迷惑ですよね」。

 実際、その小さな男の子は私の目には迷惑でもなんでもなかった。彼は彼なりに周りに配慮しつつお兄ちゃんの隣にいたかっただけなのだ。

 「あなたが注意できないのに、他人ができないことを批判できるのですか?」と言いたいのをぐっと堪えて、求められた同意には応じなかったが、これが多くの人の姿じゃないだろうか。事例が少しずれるかもしれないが、「社会を良くしたい、でも私には何の力もないですから、誰かやってください。」、こういうマインド。

 いたるところに転がっている現象だと思う。

 だから、「変える」ってなんだろうと思う。

 今回、中村美亜准教授のワークショップを体験することができて、そんなことをまたぼんやりと考えてみたが、先生ご自身が当事者として、セクシャリティ研究をなさっていることについて、会場から質問が出なかったことについても考えてみた。

 私にとって、それは興味深い現象だった。

 人の集団行動や心理に関心があるせいか、私はかなり見る位置がずれているのかもしれない。

 それはさておき、今回も、世界におけるセクシャリティの問題について、何らかの意識を持たれている方々が参加なさったように思う。サンエール鹿児島の5階ホールではなく、もっと広い地域社会、国、世界と境界のない空間にそのまま広がりを作れれば、その時に社会が変わったということになるの、かな。

 性のカテゴリが重要なのではなく、生命として輝いているかが大事なのだと思う。自分を生き抜く、と言ってもいいのかもしれない。そう考えれば、自分に正直に生きるということが理想だが、それがとても難しい世界であることもまた事実だ。

 自分が変わる、どんな批判を受けても、悪口を言われても、やってのける勇気、その体験によって「な〜んだ、世の中って私たち一人ひとりが作りあげているにも関わらず、その網に自ら絡め取られてしまっているのか」ということが見えてくるのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、ウォールデン・ソローを思い浮かべた。究極の自由を得た人物の一人であったろう。

 

                                  (文責・吉田美佐子)

 

 

 男女平等やSOGI尊重が遅々として進まない中で今回の報告を書こうと思い、では他のジェンダーをめぐる世間の状況はどうなのかと数日ニュースの見出しを拾い集めてみました。 1、企業のガバナンス改革のために女性の元アナウンサーが相次いで登用されている。2、バイデン政権が性的少数者差別を禁じる大統領令・閣僚に非白人や同性愛者を起用・公約通りトランスジェンダーの米軍入隊が認められる。3、正月の箱根駅伝で名物監督の「おまえ、男だ」「男だろ」という喝を入れる言葉に賛否両論。4、紅白歌合戦で司会を務めた女性看板アナの学生時代肉食系遍歴を暴露した男性への批判。などが目にとまりました。セクシャリティの社会的な合意形成には長い時間がかかることを常に思います。

 同時にまた、そのための歩みを始めるのは早いほどいいし、始めなければ苦しさや抱え込む困難を無くせないだろうとも思います。  今回は去年のアジア美術館の趙さんの企画の大好評もあり、サンエールフェスタ史上2回目の現代アートから鹿児島社会をアップデートする素晴らしい企画だったと振り返ります。 前半の1時間は、中村先生と原田さんが様々な作品を対話を生み出すように作品の説明をわかりやすい言葉で話しながら見せてくださった。  

 冒頭、リンゴとオレンジの静物・デュシャンの泉によって、視点や前提、思い込みを揺さぶるアートの意味を知り、それぞれはこのイベントを通してジェンダーを考えるドアを開けていただきました。 引き続き、対話型鑑賞として、女性器を暗喩する陶の作品、女は花と人形だけ描いておれと言われた近代の女性画家が描く崩れかけている家、たっションしてガッツポーズを取る白いワンピースの若い女性の映像作品の画像、ダムタイプの舞台の画像を見せていただきました。

 サンエール備品のプロジェクタの光輝パワーの乏しさが悔やまれてならない、と始終考えていました。それぞれの作品を中村先生を鹿児島市にお招きして色彩と質感の豊かさを実感できるように味わう機会を得たいものです。また、お話を聞きながらあいちトリエンナーレの男女作家同数実現や表現の不自由展のことも思い出していました。   

 こうした企画を実施することそのものが多様性を尊重する社会の実現に向けた個人個人のエンパワメントに成ると思いますが、例えばトランプ氏支持者のタイプの一つと言われる「非白人への排他に力の行使をいとわない感情」や類似の傾向と、どうすれば対話をしていけるだろうか、と自問します。 それは、例えば女性に性欲は無い、と決めつけていた前時代的価値観は今でもあるのでは無いか、という考えにもつながります。

 総じて、いつになれば海外の先進事例に感動するしかない現実的で具体性の有る性教育を私たちの物と実感できるようになるのでしょうか。サンエール側は、フェスタを今日、どのように捉えてどのように育て上げていきたいとお考えなのでしょうか。 後半は、先生と主催が集めた10点ほどのカラー写真を見ながら5人グループで意見交換をしていただき、締めくくりに各グループから2分でその状況をプレゼンいただきました。婚活広告、国会議事堂前で笑顔でジャンプする男性カップル、土俵のように女人禁制の豊作祈願の祭り、選挙風景などに冒頭で個人の常識や前提や思い込みを揺さぶられたところからの活発な意見交換の成果を話していただきました。 サンエールが建築構想の段階から、このご時世にわざわざ箱を作るのだからジェンダーにとらわれない個人が尊重される社会を着実に実現していきたいと強く思っていましたが、まだまだ先は長いように感じます。無論、時代のニーズとは噛み合いつつあるはずなのですが。 さて、今回はコロナ対策として定員を絞っての開催でしたが幅広い世代の方に満員御礼のご参加をいただけました。主催としての反省は通信と映像環境の困難がありました。オンライン需要の高まる昨今、来春に同様の苦労をしなくて済むようにサンエールさんには善処方を強く求めておきます。                                                  (文責・野口英一郎)

 

 

 

 このレッスンを通して、私たちは「わかりあえたか」というと、たぶん答えはNOだろう。わかりあうことは、そう単純ではない。しかし、それぞれ他者との「違い」や「思い」に少しばかり触れることはできたかもしれない。まずは自分と違う多様な感覚に触れることから始めたいと思う。

 次になぜ男女共同参画にアートなのか。私たちはいま、あらゆる場面で同調圧力が幅をきかせる時代に生きている。その中で、人と違えば違うほど評価され、常に新しい価値を創造していく現代アートは、凝り固まった見方をがらりと変えてくれることがある。さらに同時代を生きる現代美術家たちは、社会に問いを立て、混迷の世界から未来に光を当てる稀有な存在でもある。そこでアート×ジェンダー&LGBTsという企画を、鹿児島市男女共同参画課実施事業の一環として昨年から提案している。つくる学校がテーマの一つとする、「もっと!新しい公共。」の実践だ。

  以前、子育て中のアーティストと育児談義をした時のこと。子どもがたくさんの作品に触れることで、自分が今いる(関わる)社会(学校など)はちっぽけで、世界はとんでもなく広いことを知るのではないか。いろんな考えの作家の作品を見ると、「なんだ、自分は自分のままでいいかも」と自己肯定に繋がり、力を抜いて楽に生きられるかもしれないと。そういうと、アートが万能のように思われるが、現実を映す作品は時に暴力的でもあり、心の状態や過去の経験によっては疲れ、傷つくことがあるのも事実。しかしその傷のありかを探ることは、自己の深い部分を見つめ直すチャンスになるかもしれない。同時代の優れた作品に、変化の時代を生き抜く希望の種を、私は見出したい。

 レッスン中、ドキっとしたことがあった。「もともと性は男、女と単純に分けられない。グラデーションがある中で、ジェンダーによって押し込められている。そのジェンダーは私たちが作ってきたもの。壊すのも私たち」という中村先生の言葉。なんだか見透かされた気がした。性差別をなくしたいと息巻いたところで、家父長制が息づく昭和な家庭で育つと、知らぬ間にかび臭いジェンダーが沁みついてしまっている。

 内から外から押し寄せるジェンダー規範に足を取られ、大いに悩み、へこたれそうになることもあるけれど、そんな時はいつの時代もどこかで誰かが生きづらさをなくそうと努力して今があることを思い出す。連綿と続く、「変えていくのは自分たち」という意識を共有し、学びあう仲間が支えであるとともに、近年の#metooから続くうねりも気持ちを後押しする。

 さて、参加者のアンケート結果が届いたら熟読し、既存の価値観を揺さぶる次の一手を考えねば。                                 (文責・原田真紀)