· 

いま読みたい!『女と刀』おしゃべり会リポート

 

リポート#1

2021年に鹿児島で開催した展覧会の企画準備で、鹿児島の婦人解放運動や女性史をリサーチした。県外出身者の女性の活躍が目に付く中、霧島出身の中村きい子が母の生き様を描いた『女と刀』は鮮烈な印象を残した。明治生まれの女性でありながら己の意向を立て、いつでも誰とでも真剣勝負、一歩も引き下がらない主人公キヲ。キレのある台詞や達観した思考が眩しく、娘、妻、姑とその時々の立ち位置での振る舞いも痛快で、「キヲ姐御について行きます!」的なノリであっという間に読破した1回目。しかし2回目読み返してみると、どうもスムーズにいかない。郷士の娘キヲの特権意識や「ザイ」へのあからさまな差別、所々に散りばめられた鹿児島の細かな身分制度が息苦しく、窮屈で仕方ない。もしキヲが男だったら、昭和になっても家父長制を振りかざす頭固いオッサンになっていたかも?そんな気持ちが過って初回とは全く違う読後感を味わった。

それからしばらくして、東京にあるフェミニズム専門書店エトセトラブックスBOOK SHOPで『女と刀』の中古本を発見。購入しようとレジへ行くとお店の人が「来月復刊されますよ」と教えてくれ、せっかくなので新刊を待つことにした(お店の方なんていい人!)。初版から50年以上の時を経ての復刊は、第4波フェミニズムの波に乗ってのことだろう。いま、この本を読むことの意味を鹿児島で考えたいと思っていたところ、つくる学校のメンバー吉田さんも本を持っており、一気に「おしゃべり会」企画へと実を結んだ。

「読書会」というほどカッチリしたものでなく、第3章までとりあえず読んでおしゃべりしましょうという会にしたのは、『女と刀』を作品として文学的な考察をするというより、自分の生活や経験に引き寄せて語る会にしたかったから。また単独開催でなくサンエールフェスタ2023応募企画としたのは、同質性の高い集まりではなく、いろんな背景をお持ちの方と語りあいたいからに他ならない。

会の直前、『女と刀』3回目にチャレンジした。すると、ブレないと思っていたキヲもその言動に矛盾をはらんでおり、じわり人間味を感じるではないか。最後の方では、村の女性たちが独り逞しく生活する高齢者キヲの生き様に関心を寄せ、身分を越えて繋がり、そこで繰り広げられるシスターフッドに目頭が熱くなった。なんだか読むたびに本の印象が違うぞ。

おしゃべり会当日、ほとんどがお一人で参加してくださり、2070代と年齢も幅広く、12人中2名が男性だった。何度も大切に読み重ねてこられた方(当時の新聞記事なども持ってきてくださった)、この企画で本を知った方、読みながら自分の母親や祖母の記憶がよみがえってきた方、キヲの差別的な言動が苦しくなかなか読み進められなかった方など様々だった。ナビゲーターは、福岡からお招きした井上恵美さん(お父さまが蒲生のご出身!)。井上さんが主人公のキヲ中心ではなく、その他の登場人物(夫、複数の子どもなど)の立場からも考えるよう采配してくださり、「なるほど、確かに夫は主体性がなく物事に流されやすいが、そこまで悪人じゃないかも?」など、物語の切り口が増えていき、参加者の意見も聞いていくと、どんどん視野が広がり、単純にフェミニズム小説とは言い切れない、鹿児島の土着の歴史と人間模様が詰まったかけがえのない一冊に思えてきた。
 この本が出版された1966年は70年に始まるウーマン・リブ以前のことで、ジェンダーという言葉も日本にまだ伝わっていなかった頃。しかしながら、本は瞬く間に大ヒットして十一版を重ね、翌年には山田太一脚本、木下恵介アワーでドラマ化され全国視聴率30%(鹿児島は60%)を越えるなど、当時一つのムーブメントとなったことは、日本のジェンダー史においてももっと注目されるべきではないか。そんなことを考えながら、もうしばらく本を寝かせて、いつかキヲさんとの4度目の真剣勝負に挑みもんそ(文責・原田真紀)。


リポート#2
「女と刀」を井上さんファシリで
読む企画を終えて

 政治と行政と社会冷徹と無反応に対して苦しい辛い悲しい憤懣やるかたなし、お話を日常業務でじっくりお聞きする20年間。社会や空気が人を壊していると感じ分断と孤立広がりと深まりに起因する様々な出来事とどように向き合うことが当事者お手伝いになるもかとある意味試行錯誤毎日中で今回企画に臨みました。

 

多子なに、性愛営みを意図的と思うほど一切描くことなく、死守、血を存続するために血を固める、階級社会においてしがみつくよな士族自尊心と差別マインド。と読書会当日を思い出しながらこうして書き出してみるが、所与が違う前提が違う、時代認識が違う、ことをまた改めて思うと愛情がないと妊娠する行為はなされない。とはならない、と言う旨発言を井上さんもなさったかと思い起こします。

 

 また、当時を思えば安全衛生環境不十分な社会においては、戦乱勃発も見通しつかない時代では多産多死ということもまたどうしようもない前提でもあったろうかと思いました。また、国ために死ぬことを強いられるかもしれない命を多く生むことが奨励される抗しがたい空気もあったろうか。

 

 気遠くなるような長い年数を自分が認められない人と婚姻状態継続した私史、こ再販と比較的鹿児島で好調なセールス(みたけさん活動と関係もあるようですが)、とミートゥー運動連関はあるやに見えて極めて異質。とは言え、今を生きる私たちは今生き様から「女と刀」を読んで思い感じることを引き出してもらいながら、私を対照する。

 

議論ができない、対話ができない、多様性に非寛容、な鹿児島と本に限らない排除と無視と暴力吐露と、補完助長情報技術革新、そんな2023年年頭で公開イベントを誇るもが150年前しかないか錯覚させられかねない鹿児島市で開催できて本当に貴重でした(文責・グチエイイチロう)。

 

 

リポート#3『女と刀』読書会を終えて

 

テレビやYouTubeでの人生相談は相変わらず大人気だ。本も数多く出版されている。仕事、恋愛、家族、ご近所づきあい、内容がなんであれ、抱えている問題の解決策を誰かに示してほしいという欲求が根底にある。その「解決策」の「策」(物事や事件に対して行う処置・手段)は「選択(肢)」であり、何をどう選択するかは、選択の自由が保障されているし、その先にみえる表現の自由も保障されている。占いも有りだろうし、学者風の人に例えば「脳の男女差」をベースに個々の問題を整理してもらうと、「なるほど、そういうことか」と納得したり、安くはない相談料を支払って業者に相談してみたり、人が問題を解決し楽になりたいための方法は世界には多様にある。面倒臭いから考えない、という選択だってある。そして私たちは自由に選択し、誤魔化しながらもなんとか日々を生きている。繰り返しになるが、問題解決策についての選択は人によって違い、それが強烈な個性として表に現れることがある。

『女と刀』の主人公、キヲの個性は、それ自体でキヲの存在、命を周囲に知らしめていたと言っていいだろう。問題解決策にその人の個性が現れるという視点で見たとき、キヲは徹頭徹尾相手との「対話」にその解決の糸口を求めた。そしてそれはほんの一瞬も揺らぐことがない。敗北はあっても。

 私たちは、人が対等(平等)に生きられる社会とはどういうものなのかを真剣に対話したことがあるだろうか。対話する直前で切ってしまっていることが山ほどありはしないだろうか。

 対話とはなんだろう、と考える前に、日々の暮らしの中で対話する種はごろごろと転がっている。私たちは、足元に転がっている問題の種を拾うことなく、遠いところでの問題をやたらと議論したがる傾向がありはしないだろうか。遠いところの問題を議論することで自分の足元の問題を見なくて済む、あるいは解決に向き合っているような気になる、それらはどれも抽象的で自分ごとになりにくい。

読書会は、本を読むことを前提で行うものだ。読書とは本との対話だという人がいる。1日に本の一部でも読むことが好きな人は、この言葉に頷くのではないか。対話によってインスピレーションを得ることは多くある。対話と創造は同一線上にある。逆に言うと創造を産まない対話は対話としては失敗だと考えておくようにすると、私たちが人と話し合うとき、向き合い方の心がけも変わってくるかもしれない。

 多様な人の意見を聞く力と自己肯定感は似ているように思う。だから、読書会は実施するのに甚大な労力は必要ないが、大きな効果をもたらす。キヲはよく「おのれ」と言う言葉を使う。己を認めずして人のことを認められるのか、という精神上の問い、闘いを「おのれ」の一言に込められているように思う。男女共同参画は、「おのれ」を意識せずには永久に成し遂げられない、そう言ってキヲはどこかで現代人のわたしたちをケラケラと高笑いしながら見ているかもしれない。

一人一人の想いや考え、本音を引き出してくださり会を深いものにしてくださったナビゲーターの井上恵美さんに心から感謝したい。

また、サンエールフェスタで読書会が催されたこともありがたいことだった。

 重ねて今後、読書会がどこかでどなたでも、立ち上げていかれることも期待している(文責・吉田美佐子)。

 

 

 

レポート#4 刀を突きつけた人                                  

新しい女の人生を目指す主人公・キヲは、昭和から明治にかけて、世のならいに徹底してあらがい、「自立」の心を捨てずに生きた。士族の身分制度や血の掟と闘いながら、また同時に士族の血を誇りをに生き抜くという二律背反が、いっそう物語の緊張感を高めているようだった。古くは身分制度や家父長制、近年は経済戦争・経済優先社会という中で、女が男を家や社会で自分を殺して下支えするという抑圧と差別の構造はさほど変わらないと思うのだが、そのようなジェンダーの問題を超えて、日本人として、人間として、恥ずかしくない生き方とは何か、お前はそう生きているのか──刃物のような問いを向け続けるのがこの本の凄みだと感じた。何ごとも面倒なもめごとを避け、とりあえずその場を丸く収めようとしがちな自分にとっては、読み進むのが正直ツラかった。そして、ほんとうに愚生のことで恐縮なのだが、読後は、二つのことを思った。一つはある本のこと、一つは、僕自身の生い立ちのことだ。

 

ある本とは、むかしむかし僕が編集者として駆け出しのころ、「これは読んでおけ」と先輩に勧められた『菊と刀』だ。1946年、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトが著したこの本は、日本文化の本質を深く洞察した、日本人論の名著とされている。欧米の「罪の文化」と比較して、「日本は恥の文化」と類型化したことでも知られる。家族や友人、社会のすみずみまで上下関係に支配された社会だと論じた。一度も日本に来たこともない彼女は、第二次大戦中の米軍の情報局による日本研究をもとに執筆したという。その約20年後の1964年に中村きい子の『女と刀』が上梓されたのだ。おそらく、著者・中村きい子は、ベネディクトの『菊と刀』を少なからず意識したのではないか。そして、その『菊と刀』への賛同と批判を併せ持った、一つのアンサーとして日本人の実際を描き切ったのではないか。だからどうだということではないのだが、『女と刀』というタイトルから嗅ぎつけた僕の印象から、読後感じたのはそういうことだった。

 

もう一つ感じたのは自分自身のことだ。日本が輝かしい高度成長期にさしかかろうとする1960年、僕は未婚の母の元に生まれた。美容師として手に職を持った母と親ひとり子ひとりで育った。ゆえに家父長制などほとんど無縁。家の中では『女と刀』にあるような女性の抑圧や差別とは縁遠かったと思う。たぶん、生活することに必死で、それどころではなかった。そうした自らの出自を、取り立てて人に話すことも、恥ずかしいとかも思ったこともなく、周りからの偏見や差別もあったのだろうが、それに反応・抵抗したという記憶はほとんどない。いや、のほほんと育った自分が気づかなかっただけで、母は母なりに闘っていたのかもしれないし、我が子に気づかせない彼女なりの〝強さ〟があったのかもしれない。そしてまた一方で、僕自身に、家や社会の中での女性の抑圧と差別といった問題意識への欠落を感じるのは、この生い立ちのせいではないかと思ったりする。もちろんそのせいばかりではなく、厳然たる男社会に生きてきたからなのだが。

 

今思えば、男とは、父親とはこうあるべきとアホな我が子に教えたくても教えられなかった、というのが母の本音ではなかったか。『女と刀』を読んでいるあいだ、僕にずっと刃を突きつけていたのは、キヲであり、実は母だったのかもという気もする。これも、だからどうだということではないのだが(文責・吉国明彦)。

 

                                    

 

ナビゲーターの井上恵美さんから当日の感想が届きました。こちら